納札とは 小さな札に託す祈り
四国遍路の旅で、本堂や大師堂の前に小さな箱が置かれているのを見たことがあるでしょう。そこに静かに差し入れる白い紙片。それが「納札(おさめふだ)」です。
本堂と大師堂に一枚ずつ、計二枚を納めるのが基本。八十八ヶ所を巡れば176枚にのぼります。納札は参拝の証であると同時に、「自分はいま、巡礼者としてここにいる」という自己表明でもあります。
箱に差し入れる瞬間、旅人の名前と願いが土地の記憶に溶け込み、見えない祈りの層が少しずつ積み重なっていくのです。
書き入れること
納札の表には日付・住所(市区町村まで)・氏名を、裏には願い事を一つだけ記します。内容は「家内安全」「心願成就」など簡潔で構いません。
出発前に束ごと準備しておき、現地で日付だけ書き入れるとスムーズです。納札箱の中を覗き込んだり、他人の札に触れたりするのは厳禁。静かに納める一連の所作そのものが、祈りの一部です。
色に込められた巡礼の時間
納札には周回数によって色が変わる慣習があります。
1〜4周は白、5〜6周は緑、7〜24周は赤、25〜49周は銀、50〜99周は金、100周を超えると錦(刺繍入り)へ。
これは位を示すためのものではなく、歩き続けてきた年月を“色”で可視化する工夫です。
白から緑へ、赤から銀へと札の色が変わるとき、巡礼は単なる旅から「生涯の習慣」へと深まっていきます。
納めるだけでなく、手渡す札
納札は、奉納するための札であると同時に、人と人をつなぐ小さなメディアでもあります。遍路同士が出会ったときに交換したり、お接待(無償の施し)を受けた際のお礼として手渡したりするのが通例です。
名前や出身地、願意が書かれた札は、言葉を超えて“あなたがどんな思いで歩いているか”を伝える名刺のような存在。 見返りを求めるものではなく、ただ感謝を形にする手段として受け継がれています。
納札のかたちと語の由来
「寺を打つ」という表現は、もともと木札を柱に打ち付けた慣行から来ています。江戸時代までは木や金属の札が主流でしたが、建造物保護の観点から、やがて紙札を箱に納める形へと変わりました。
現在は名刺大の紙や布製の札が一般的で、寺務所や巡拝用品店で容易に手に入ります。印刷済みのものも多く、旅の準備の一部として定着しました。古い時代の“打つ音”は消えても、「納める」という静かな動作に変わっただけで、その意味は変わっていません。
実務と心得
一日の参拝予定数×2枚を基準に、予備を含めて余裕を持って準備しましょう。 雨に備えて防水袋やファイルに小分けし、参拝前に取り出しやすくしておくと動きが整います。
本堂で一枚、大師堂で一枚。納める順序を守り、落ち着いて一礼してから手を差し入れる。これだけで所作が美しく見えます。住所は市区町村まで、願意は簡潔に一つ。この節度が、他の巡礼者や寺への敬意につながります。
よくある誤解
納札と御朱印(納経)は混同されがちですが、まったく別の行為です。納札は巡礼者が自ら書いて納める「奉納のしるし」であり、納経は寺側が授与する「受領の証」。
どちらも参拝の記録ですが、前者は“差し出す行為”、後者は“受け取る行為”。この両輪によって、巡礼の往復的な関係。「祈りを届け、祈りを受け取る」という構造が成り立っています。
受け継がれる納札文化
別格二十霊場や区切り打ちでも、納札の作法は同じです。日付や区間を控えておくと、自分の旅の記録が整理しやすくなります。何度も歩く人ほど、納札の色や筆跡の変化が人生の時間を映す鏡になります。薄い紙片一枚の中に、祈りと感謝と交流が折り重なっている。それがこの小さな札の文化的価値です。
ただの一枚ではない
納札は、参拝の証であると同時に、巡礼者を社会とつなぐ「名刺」であり、継続の証でもあります。色の違いは歩いた年月、文字の滲みは心の軌跡。そして、誰かに手渡した一枚は、見知らぬ誰かの記憶の中で新たな祈りに変わっていきます。巡礼とは、そうした小さな交換の積み重ね。
納札は、四国遍路を“ひとりの旅”から“人と祈りが交わる文化”へと広げてきた、最も静かなコミュニケーションなのです。
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