歴史を知って、安心して歩くために
現代の四国遍路は、誰にでも開かれた巡礼です。女性も安心して参拝・巡拝ができ、特別な制限はありません。
ただし、かつて日本の山岳信仰や寺社には「女人禁制」や「女人結界」と呼ばれる慣行がありました。これは女性の立ち入りを制限する宗教的風習で、四国遍路の周辺にもその影響が残っていました。
女人禁制とは何か
女人禁制とは、特定の寺院や霊場で女性の立ち入りを禁じた慣行を指します。その背景には、僧侶の戒律を守るための配慮や、修行の秩序を保つための制約、さらには「穢れ」という観念も関わっていました。
明治五年(一八七二年)、新政府は寺社における女人結界を原則として廃止し、宗教空間は法的には開かれました。それ以後、全国各地で女性の参詣が解禁され、交通の発達とともに巡礼はより自由な形をとるようになります。
近年の宗教学や民俗学の研究では、女人禁制を単なる差別の制度としてだけでなく、修行の厳しさや聖域の観念と結びついた文化的構造として読み直す試みも行われています。
高野山の事例 女人堂と女人道
四国遍路の満願地とされる高野山も、かつては女人禁制の山でした。女性は山内に入ることを許されず、登り口ごとに設けられた「女人堂」で参籠し、外から山を拝みました。これらの女人堂をつなぐ外周の尾根道は「女人道」と呼ばれ、全長十六キロほど。女性はこの道を歩き、堂で祈り、内なる信仰を深めました。
明治の解禁後、女人堂の多くは姿を消しましたが、不動坂口の女人堂が現在も残り、往時の祈りの場を今に伝えています。高野山が禁制から解放へと転じた歴史は、宗教と社会の関係が近代化のなかで変わっていった象徴でもあります。
四国霊場の記憶 第十八番・恩山寺の伝承
四国霊場にも、女人禁制の伝承をもつ札所があります。徳島県の第十八番・恩山寺は、山上部が女性立ち入り不可であったと伝わります。
若き空海がこの寺で修行していたころ、母・玉依御前が訪れましたが、禁制のため登ることができませんでした。空海は秘法を修し、母を迎えるために結界を解いたとされます。これが「女人解禁」の伝説であり、寺号の「母養山」や境内の「御母公剃髪所」の由来になっています。
この物語は、聖域としての山と、家族や社会の現実をどう折り合わせるかを象徴するものでもあります。現在の恩山寺は男女ともに参拝が可能で、女人禁制は歴史の記憶として静かに語り継がれています。
石鎚山のお山開き
四国の信仰を支える山・石鎚山では、修験道の伝統を受け継ぎ、毎年七月一日の「お山開き大祭」の初日のみ、女人禁制の慣習が残っています。かつては祭礼期間全体が禁制でしたが、現在は初日のみで、翌日からは女性も登拝できます。
この慣習は差別ではなく、信仰儀礼の秩序を象徴する「伝統の形式」として残されており、登山や参拝を計画する際は、この日程を確認しておくことが勧められます。第六十番・横峰寺が石鎚山系の北側にあり、遍路と山岳信仰が交わる地として知られています。
いま歩く女性のための実務ポイント
今日の遍路道は女性にとっても安全に歩ける環境が整っています。
計画を立てる際は、
(一)札所の納経時間を確認し、無理のない行程を組む
(二)宿泊は民宿・旅館・宿坊などを早めに予約する
(三)山道区間では日没前に下山を終える
(四)単独行では位置情報共有や連絡体制を確保する
(五)通信圏外を想定して紙地図やオフライン地図を併用する
といった基本を押さえておくと安心です。 高野山や石鎚山を合わせて巡る場合は、公式サイトで祭礼や天候、通行止め情報を事前に確認しましょう。
禁制の記憶を越えて、ひらかれた巡礼へ
四国遍路は、かつての禁制の時代を越えて、今では誰もが歩ける道となりました。高野山の女人堂や恩山寺の伝承は、排除を語るためではなく、理解と安全のための記憶として残されています。
寺や山に向き合うとき、性別を問わず敬意を持ち、作法を守って歩くこと。それ自体が、過去から続く「開放の歴史」を現在に受け継ぐ行いです。歴史を知り、心構えを整えて歩く一歩は、信仰と社会の両方をつなぐ静かな祈りになるでしょう。
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